中央日報は2012-03-17 00:05頃、http://article.joinsmsn.com/news/article/olink.asp?aid=7277054&serviceday=20120317で、下記の記事を掲載しました。
上記の記事はj・Seoul V7で機械翻訳したあと、krntrnが手修正を行なっていますので、原文とは異なる場合があります。ご注意ください。[お金と経済]パワー中堅企業家…イ・ヒサン(李喜祥)ウンサングループ会長
小麦粉とフェラーリ.
全く似合わない組合せだ。ところでウンサングループ イ・ヒサン(66)会長は“共通点がある”と話す。まさに顧客を楽しくする…. 小麦粉とフェラーリはともにイ会長が運営する品目だ。小麦粉はウンサングループの主力事業だ。フェラーリは子会社のFMKを通じて輸入販売する。またフェラーリは世の中で一番高くて高級ブランドの小麦粉を作るというウンサングループのベンチマーキング対象でもある。ウンサングループは小麦粉を作る東亜院を筆頭に食品・ワイン・飼料など23ヶ系列会社を置いている。やはり一瞬考えれば一貫性がないように見える事業ポートフォリオだ。だがイ会長は“皆誰かを楽しくする事業”と簡単に整理した。彼は“人を苦しくという事業は絶対しない。顧客を感動させるのでなく最初から気絶させるほどの満足を与えるのが私たちの目標”と話した。
'No.1 …売り上げ1兆ウォン'の夢
イ会長は常にジャケット左側襟に'+1'もようの東亜院バッジをさして通う。数字1には2015年まで'グループ売り上げ1兆ウォン,事業別業界1位'を達成するという覚悟が含まれている。ウンサングループの昨年売上額は8300億ウォン. イ会長は“売り上げ1兆ウォンはすべての中堅企業の夢”としながら“1兆ウォンを突破してこそかなりの波にも揺れない”と話した。
イ会長が売り上げ1兆ウォンを格別に強調するのは最近2〜3年間'名前がない中堅企業'として体験した佗びしいということと冷遇のためだ。東亜院は当初全北(チョンブク),群山(クンサン)にあった工場を政府の要請を受けて木浦(モクポ)で移転した。だがまた木浦市(モクポシ)の強要に勝てないで追い出されるように荷物を包んで唐津(タンジン)に移さなければならなかった。彼は“政府要請に移した本社を地方自治体がまた追い出したこと”としながら“力強い大企業ならばそんなに簡単に追い出したか”と反問した。
東亜院はイ会長の父親の故イ・ヨング会長が1956年群山(クンサン)に設立した湖南(ホナム)製粉が母胎だ。湖南(ホナム)製粉は全南(チョンナム)にも企業がなければならないという政府要請により1969年木浦(モクポ)に第2工場を設立した。三鶴島(サムハット)の公有水面埋めたて権を譲り受けて敷地埋めたてと整地作業を経て工場を作った。地域民との共生経営で会社の勢いが拡張されるや1974年には群山(クンサン)工場を閉鎖して本社を最初から木浦(モクポ)に移した。湖南(ホナム)製粉は1990年代初め全国市場攻略を目標に会社の名前を韓国製粉に変えた。
だが木浦市(モクポシ)が2000年初め三鶴島(サムハット)復元事業を発表しながら木浦(モクポ)の郷土企業韓国製粉は行く所ない境遇に転落した。イ会長は“三鶴島(サムハット)復元をかけた木浦市(モクポシ)が韓国製粉が移転敷地を物色する時間も与えなくて安値の報償金だけみなされたまま追い出した”と回顧した。“外国為替危機を勝ち抜いてちょうど安定期に入り込んだようだったのに突然崖っぷちに追い出された瞬間”となったということだ。
イ会長は大学卒業後米国に出て行って海外市場開拓に没頭している間突然経営権を継承した。1993年4月父親が世を去ったし,7月には父親の後に続いて会社を運営した弟(妹)まで航空機墜落事故で亡くなる不祥事が重なったためだ。
イ会長は“ソウル,ノンヒョン洞事務所で木浦(モクポ)市民団体が一日が遠いといって集まった”として“数千坪の工場の場所を探すべきなのにはやく出て行くとし息を継ぐ暇も与えなかった”と伝えた。彼は工場が強制退去される危機から正面突破を選択した。新東亜グループが解体されながら売り物に出てきた東亜製粉を取得して図体を育てて市場占有率28%で製粉業界1位にのぼったのだ。同時に東亜製粉の仁川(インチョン)工場と韓国製粉の木浦(モクポ)工場を合わせることにして忠南(チュンナム),唐津(タンジン)に最先端製粉工場を着工した。
ついに昨年末小麦粉を作る公正過程を自動化して半導体工場劣らずホコリ一つ軽く入ってこれない最先端工場を完工した。また他の工場よりもう一つ長い粉砕過程と分類過程ラインを設置して業界最高品質の100種余りに達する小麦粉を生産できることになった。
韓国・東亜製粉で呼んだ企業の名前も東亜院に変えた。ついでに二つの会社が各々だった企業イメージ(CI)やはり'+1'に変更した。イ会長は“+1は単純に1兆,1位だけ意味することではない。人よりもう一つ考えてするがさらに実行しようという意”と説明した。引き続き“1等は口で叫ぶとなされない”として“常に満足するより不足した小さいこと一つをさらに満たしてこそ1位となる”と強調した。
イ会長はCI統一に続きどこでも前に出すほどのブランドを作るのに没頭している。東亜院は4年前小麦粉消費者市場に進出するために'麦仙'というブランドを披露した。その間は主に大型食品会社に小麦粉を納品したが家庭用に小さく包装した製品を作って消費者市場に発売したのだ。
イ会長は“思ったより麥仙がよく知られない”として“大きい企業のように莫大なマーケティング費やピンモデルを使うことができなくてさらに難しい”とした。通常の中堅企業と同じように新しい成長動力開発やはり侮れない。大きな市場はすでに大企業が枠をあわせているレッドオーシャンである可能性が大きい。それでも小さい市場に進入する場合図体が散漫に大きくなった企業が中小企業領域を侵すという非難に苦しめられるのが常だ。イ会長は“中堅企業はそれで他の人々と競争しない市場,他の人々が行かない市場を探さなければならない”と話した。
“No代わりにYesと話す”
大統領府では今年1月中旬中堅企業家が参加した'大統領と中堅企業家の対話'が開かれた。中堅企業家は当時“中小企業を卒業した後税制・雇用など各種支援は減って大企業らと無限競争に追い出されて経営に困難が多い”と訴えた。
イ・ミョンバク大統領は“政府が中堅企業の金融および人材支援を専門担当する機構の必要性を検討しなければならない”と指示した。この席は事実上イ会長が1月初め本紙とのインタビューで“大統領府も中堅企業家は呼ばなかったよ”と指摘した後作られた席であった。だがイ会長は“当初大統領府昼食参席者名簿に私の名前はなかったよ”とした。彼は大韓商工会議所傘下中堅企業家協会の会長を再任しながら中堅企業の代弁者役割を自認してきた。“中堅企業が良く育ってこそ私たちの経済が元気になる”という所信のためだ。
イ会長は“大統領府晩餐が何日残っていなかった時知識経済部の連絡を受けて参加した”として“だが晩餐会場で出たブラックリストに上がったのかマイク(発言機会)も与えなかったよ”として虚しいといった。彼は“政府に対し苦言を呈したが私はいつも肯定的なのが好きだ”として“大統領府が中堅企業をはじめて認識することになったのも感謝する”と話した。イ会長は生まれつきの性格的にノー(No)という言えなくて常にイエス(Yes)が身についているという。家でも職場でも常にノーよりはイエスという言葉だけ使うといった。家では最初から家族らの間に'イエスマン'と呼ばれる。イ会長は“イエスと話せば常に良いことが起こる。それで子供たちにもノーは教えないでイエスだけ教えた”とした。
イ会長は娘二人と息子一人を置いているのに,子供教育で最も気を遣ったのが肯定マインド教育だ。イ会長夫人ジョンヨン化(66)氏は“夫は友人になった縁でも子供たちに入った本当に拒絶をできない。私と結婚したのも多分舅姑様がさせるからイエスハン某嬢”としながら笑った。
夫婦はイ会長が米国支社勤務を控えて家の見合いで初めて会って一ヶ月だけに婚約したし,また一ヶ月だけに結婚した。二人の娘も見合いで結婚した。夫婦は三十行に入り込んだ息子まで見合い結婚をさせる姑息な手段だ。夫婦は時々夫婦げんかをする時も子供らを眠らせた後夜12時を越えて居間門戸を閉ざしてチョ・クンジョ謹賀は声で争ったという。イエスマンの夫が夫人には幸せなだけしたのだろうか。“結婚初期夫が話を回してするのに理解できなくてとても苦しかったことが一,二回ではない”として“後ほど分かってみると嫌いなことをそのまま話すことができない性格だと回して遠まわしに言って私がまったくわかることができなかったこと”という答が戻った。
イ会長のイエス,肯定マインドは企業経営にもそのままはらんでいる。彼は幹部らと懐疑する時も経営懸案を問い詰めるより経営者の肯定的な姿勢を先に強調したりする。経営者の否定的な考えはどの場合でも得より損失に連結しやすい。また自らの成長を低下させるのはもちろん組織員と企業の成長と発展にも阻害になると信じるためだ。イ会長のこのような経営マインドは東亜院のポートフォリオにもそのまま含まれている。核心事業の小麦粉はうどんやパンのような食べ物で家族を楽しくして,ワインは良い人々と共に似合うことができる機会を提供するということだ。有機農・親環境食品などで事業を拡張したのも自然と人皆に肯定的な分野であるためだ。
だが誰かを苦しくして害を及ぼすことならば絶対手を付けない。イ会長は“私たちの会社が以前には農薬も作った”として“だが現在農薬事業はたたんだ”と話した。農薬は消費者が敬遠して農民を疲れさすということが事業を中断した理由だ。彼は“私たちがお金をたくさん儲けようとするなら農民が薬を打っても台風や集中豪雨に飛んで行って,また使わなければならない”として“私たちの金を儲けようと農民ら苦しむのをありがたがっていいのか”と反問した。
イ会長は肯定マインドを練磨して心を沈めるために一日にも何回ごと瞑想をする。この頃には若い職員らに直接肯定マインドを伝播するためにカカオパッととフェイスブックを熱心に習っている。彼は“若い人々と疎通しようとするならその人々方式に従わなければならない。それでこそ私が伝達しようと思うイエス哲学も広げることができる”と話した。
ことそしてワイン・テニス・国楽
'顧客気絶させる'執念で作ったワイン…米国ナパバレーオークションで最高額落札異変
イ・ヒサン会長は国内ワイン文化伝播に寄与した功労でフランスの主要ワイン産地のメドク・センテミルリオン・ブルゴーニュ・シャンパンなど4ヶ所のワイン名誉記者団に任命された。メドクの記者団に任命された直後記念写真.先月末米国で開かれたナパバレープレミアム級ワイン オークションでは小さい異変が起きた。米国でない海外業者が運営するワイナリーのワインが,そうそうたる現地ワイナリーらが出品した190種余りのワインを皆抜いて最高額に売れたのだ。
主人公はイ・ヒサン会長が2005年ナパバレーのブドウ院を取得して設立したダナーワイナリー. こちらが出品した2010年産カベルネ ソーヴィニョンが瓶当たり1167ドル(約130万ウォン)の最高額で落札受けた。歴史と伝統を重視するワイン業界で新生ワイナリーが生産したワインがこのように高い評価を受けたことは非常に異例的だ。1996年始まったナパバレープレミアム級ワイン オークションは米国内ワイン流通業者をはじめとして全世界輸入会社,飲食業関係者など1000人余りが参加する。イ会長は“ナパバレーオークションで私たちのワインが最高額を記録したのはワイン業界で最高に認められたこと”としながら“最善を尽くすのに終わらないで他の人々がしない特別な一つをもっとした結果”と話した。
実際にイ会長のワインに対する愛情は格別だ。ウンサングループのワイン輸入と専門売り場事業の歴史がそのまま国内ワイン市場の歴史としても過言ではない。
彼は70年初め米国で湖南(ホナム)製粉の現地法人のユウォンの代表で仕事をしながらワインと縁を結んだ。ワインが輸入許可品目で解除された96年輸入会社の大山(テサン)物産を整えてワイン事業に本格進出した。翌年には米国・オーストラリア・チリなど新大陸をはじめとしてフランス・イタリア ワインを輸入する国食品を整えた。また米国ナパバレーに直接ダナーワイナリーを設立することもした。ダナーワイナリーは設立4年ぶりの2009年にロータス ウィーンヤード カベルネ ソーヴィニョン(2007年産)で世界的なワイン評論家ロバート パーカーから100点満点を受けることもした。
イ会長は“ワインは単純な酒でない文化”という鉄則を持っている。
イ会長はまた“ワインは誰でも良い人と簡単に飲むべきだ”と話したりする。このためであろうか。国食品が2000年代初期から輸入しているチリの代表的なワイン追い立てたテス アルファは韓国人が最も愛するワインに選ばれながら不同のベストセラーで席を占めた。
イ会長はきれいな皮膚と素早いふりのように年齢に比べて若く見えるという話をたくさん聞く。青年時期から着実に打ってきたテニスと米国で縁を結んだワイン,経営に入門した後心酔した国楽が秘訣だ。
テニスは1963年米国留学時期から自ら学費を儲けるためにテニス コーチになるという考えで始めた。全国体育大会代表選手に出て行った程実力がプロ級だ。最近では主に京畿(キョンギ)高時期の友人らのテニス集いの花洞会メンバーらや婿らとゲームを楽しむ。イ会長は“テニスは相手方がどのポイントに移動するのかをあらかじめ分析して早く動かなければならないから常にパートナーがある経営にも助けを与える”と話した。周辺の人々は彼のビジネスマンとしての勝負根性がテニスで固められたようだと話す。
また聞くほど濃い感動を抱かせる国楽にも心酔している。伝統国楽にだけ限定されないでフュージョン国楽まで多彩に楽しむ。特にプルムウォン・セムピョシクプム・三養(サムヤン)米をマックスなど食品業界知人らと'国生死'(国楽を考える人々)という集いを作って国楽大衆化にも寄与している。国生死は2004年から毎年'国楽社と解説音楽会'を後援中だ。